普陀山の寺院概況

時間: 2020-07-29 作者: 普陀山佛教 ソース: 普陀山佛教网

歴代の『山志』の記載によると、普陀山の寺院は後梁の貞明二年(西暦916年、以下同じ)、張氏の屋敷の基に「不肯去観音院」を建て始められたといいます。宋の元豊三年(1080年)に、皇帝から「宝陀観音寺」の額を賜って、現今の普済禅寺に発展きました。明の万暦八年(1580年)、大智禅師が海潮庵を創建し、現在の法雨禅寺に発展しました。同じく明の万暦年代、僧円慧が慧済庵を開き、現今の慧済禅寺に発展されました。また、宋の趙彦衛氏が書いた『雲麓漫鈔』によれば、南宋時代に潮音洞のあたりに「観音岩寺」があったといいます。 

普陀山で最初に庵を建てる人は真歇禅師で、彼は南宋の紹興元年(1131年)に普済寺寺後の山麓で真歇庵を建てました。宋の時代、現在の鶴鳴庵一帯は僧侶野鶴は茅葺を建て仏学を学んで修行し始めました。元の至元十三年(1276年)、部帥ハライドは丞相バヤン(伯顏)からの命令を受け、潮音洞を参詣に来たが、観音大士の霊現のことを伺ったので、潮音洞の上に殿を築きました。元末までごろ、普陀山に300箇所以上の殿宇もあったが、明の洪武20年(1387年)の海禁のせいで壊されてしまった。明の天順、正徳年間に、お寺を建てに来山する僧侶もおり、成化年間(1465-1487年)に至って寺院が逐に復興させられたが、嘉靖年間(1522-1566)に、倭寇の騒乱によってそれらが再び破壊されてしまった。隆慶六年(1572年)、明所ら僧侶五人が山上にお寺を建てたが、定海(今の鎮海)把総陳典は兵を連れ山に行き、寺を燃やし僧を拘禁し、「波止場は参詣者及び游方僧道の渡海のことを許せぬ」と告示した。万暦二年(1574年)、翁州(今の舟山市)出身の僧侶真表らは山に登り来山し茅葺を建てたが、禁じられました。万暦五年、内臣の明鳳氏が仏頂山あたりに朝陽庵を建立し、修行していました。僧侶の園献が西天門に庵を結び建てられた。翌年、真表が宝陀寺の住職に就任しました。万暦十四年、慈聖李太後が『蔵経』を普陀山に下賜したことで、真表は上京して謝恩し、海内の名僧を招き誘い山に来て庵を53カ所建てられました。万暦二十四年五月、督軍劉元霖は再度「寺を建てることを禁止すること」と石碑を彫刻したが、いくど禁止されても止めなかった。定海把総趙九思の『手本』によると、当時の山上は「祠宇の殿堂と、僧房の静室とは、白昼には山に遍満され盤上の碁石のようにぎっしりつまっている、夜には火を燃え空の星ほど多く、通算二百余ある」と本に書いた。万暦二十七年二月、神宗も再び『蔵経』を賜りました。万暦三十年、内官張随等を派遣し寺院を建立するために来山しました。万暦三十三年にもう一回内官を派遣して大規模的に寺院の建築を造営されました。それから、普陀山は庵宇静室が全山に広がっていて、明の末までに、有名になる大寺は103箇所あります。 

清の康煕十年(1671年)再び僧侶を移転され普陀山を離れたこともありました。康熙二十三年に海禁が実行され、僧衆が山に戻り、元々の寺院等も次々と修繕できるようになった。康熙年間に190庵あり、道光十二年(1832年)までに16庵を廃棄して、174庵を保存し、14庵を新たに建ち、計188庵を建てました。 

民国十三年(1924年)になると、133庵が茅葺に分類され、そのうちの55庵は「旧い庵堂が新しく修繕すること、狭い庵堂が広く拡大すること」との決まりで、規制がますます高くなるようになっていた。そのうえ、普済禅寺の東西寮に属する大悲殿、錫麟堂などは、住職が退居したため、13庵を増築したり、独立させたりした。清末民国初期の19庵を加えて計88庵となりました。民国16年、また竜沙、芦干2庵の建設があって、計90庵になりました。 

新中国成立の初期、一部の庵堂が倒れたり、取り壊されたりしました。1952年の定海県(区)の文書資料によると、その時期の普陀山は全山83の庵堂がありました。 

1962年5月及び1964年4月の「普陀山家屋状況調査報告書」によりますと、全山は家屋が149箇所あり、そのうち、前山が1寺45庵35ほろ、中山が1寺22庵23ほろ、後山が1寺7庵3ほろ、合計3大寺74庵61ほろありました。同年10月に、中山海曙庵が火に焼かれ、平屋5室を再建しました。 

「文化大革命」の間に、妙峰、朝陽洞、下清涼など10庵が取り壊されてしまいました。1978年年末まで、全山は3大寺64庵しか残っておりませんでした。梅福庵以外にも40人以上の僧尼が住んでおられていました。その他の寺庵は全部機関、駐屯軍と住民の漁民が住んでいます。 

1979年に、国家が宗教政策を実施し始めたことにより、海軍は3月に普済寺を譲り渡し、10月には陸軍から慧済寺を返し渡してくれました。1980年10月からは法雨寺、三聖堂、天福庵、広福庵、洪筏禅院、梵音洞庵、鶴鳴庵などの寺院が続々と返してもらい軍隊が撤退された。その中の普済寺 法雨寺 慧済寺3大寺及ぶ、大乗庵、竜寿庵、観音洞庵、梅福庵などは仏教協会に返還してくだされたということで、その他はまだ機関と企業が占有されていました。 

1980年に、普陀山仏教協会は寺院に返却してから、一つ一つ寺院の修繕を行っておられてきました。1985年の中央弁公庁、国務院弁公庁(1985)59号の文書規定により、最初に、普済寺、法雨寺、慧済寺、大乗庵、観音洞、梅福庵など20ヶ所の寺院を普陀山仏教協会に返却して使用などの管理をしておりました。他のいくつかの返却する寺院も早くにリストを作成して、普陀山仏教協会と協議して、返却期限を確定して、一つ一つ実行しました。 

1988年2月に、浙江省人民政府は浙江省人民政府弁公庁(1988)21号の文書を発表し、積善堂、晏座堂、竜寿庵、鶴鳴庵、伴山庵、報本堂、承恩堂、宝蓮庵、茅草寮を仏教協会に移管すると規定を決めました。仏教協会は返還寺庵の修復をし、再建をしたりしてきました。そのうえに、新たに建てた寺院も不肯去観音院、善財洞庵、南海観音ホール、宝陀講寺、万仏宝塔、洛迦山大覚禅院、円通禅院、大悲殿、中国仏学院普陀山学院(境内に普陀講寺がある)などがあります。 

収集してできたのは多宝塔院で、再建したのは梵音古洞、慈雲庵、紫竹林禅院、西方庵、伴山庵、隠秀禅院、香林庵、長生庵、古仏洞などの寺院です。 

2020年3月までに、仏教協会は全部で65の寺院と庵堂を収め、修復開放などのことをなさっており、修復開放された寺院が四大寺も含めて44箇所がありあす。現在、仏教協会は徐々に関連ある古い平安堂を回復しているところで、寺院の機能化によって位置付けられ、普陀山の各基礎を固めて建設するようになっているところです。今ごろの普陀山も荘厳な観音菩薩道場になっているというところでございます。

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